連続講座「宗達を検証する」第10回 講師:林進国宝「風神雷神図屏風」と増田家旧蔵「伊勢物語図色紙」(全36図)の成立 ―その制作年と制作意図に共通するものとはー
3月22日 於:Bunkamura B1特設会場
この連続講座もいよいよ最終回となり、管理人もどうにか休むことなく、この知的興奮に満ちた楽しい講座を堪能しました。
今回のテーマは「風神雷神図屏風」。これがいつ、どういう目的で制作されたのかを、制作年がある程度推定できる「伊勢物語図色紙」との共通点を探ることで解き明かそうとする試み。
- 宗達の出自と社会的基盤については、京の上層町衆出身の絵師とする説と、六原の絵師とする説がある。前者は論拠とする「妙持宛 千少庵書状」にある「俵屋宗達」が絵師である確証が得られていない。後者は「宗舟・平次宛 角倉素庵書状」に「六原ノ絵かき」とあり、素庵と関係する町絵師が実在したことを論拠としているが、それが宗達であるかは不明である。が、後者の説に基づくことで、宗達の実像の一端を掴むことができると考える。
- 宗達にとってのターニングポイントは、角倉素庵が癩(ハンセン病)を患い隠棲したことである。当時、癩者は、乞食として放浪の旅に出るか、東山・清水坂の非人宿に入って物乞いの生活を送るかの選択しかなかったが、素庵の場合は息子たちや周囲のはからいで嵯峨千光寺跡地に隠棲して静かな学究生活を送ることができた。
- 宗達は素庵が校訂した『本朝文粋』の出版で恩に報いようとした。癩者に直接関わることは世間の掟に背くことであり、おそらく宗達はそれを機に絵筆を置くことを決意していた。しかしこの出版によって法橋に叙位され、絵の進上を余儀なくされ、更なる注文が入り、絵師を辞めることができなくなった。宗達は東福門院に依頼された養源院本堂の襖絵と杉戸絵を描き終えて寛永十年に絵筆を置いた。
- 俵屋で制作された「伊勢物語図色紙」は宗達芸術の集大成の一つ。三十六図からなる益田孝旧蔵「伊勢物語図色紙」画帖(益田家本)は、俵屋工房で制作された他の同色紙群より先駆けて作られた作品で、宗達が『伊勢物語』から三十一段の章段を選んで、構図を考え、下絵を付け、工房の絵師の協力を得て制作した。一般に「伝宗達筆」とされているが、「宗達筆」とすべきである。
- 山根有三氏は同色紙の第三十九段「女車の蛍」を掛け軸に改装する際に古い裏打紙に「高松様」と書かれた紙片を発見し、詞書の染筆者を示す裏書であることを突き止めた。その他の段も含めた裏書の研究から、色紙絵の制作が寛永十年夏までには終わっていたと考えられる。また、行方不明になり再発見された「女車の蛍」が再び改装された際には、宗達自筆の指示書が発見され、それは宗達が配下の者に主要モティーフを正確に描くことを求めたものと解釈される指示であった。この指示書の筆跡は「快庵宛 宗達書状」の筆跡と共通しており、この宗達書状が絵師宗達のものであることが確認された(快庵は素庵の親戚で医師の吉田快庵)。
- 江戸時代初期から二曲一双屏風が好まれるようになり、宗達筆「舞楽図屏風」と「風神雷神図屏風」はその代表作。「風神雷神図屏風」は、風神と雷神を一双の両端上部に配置し、中央ニ扇はほぼ金地の虚空として広い空間を感じさせる。風神と雷神を水平視で描くことで親しみのある人間的な鬼神を感じさせる。たらし込み、太い輪郭線描写など、宗達の特徴が表れている(三寸金箔押しの手法は狩野山楽と同じであり、宗達はやはり狩野派であったろうと思う)。山根有三氏は、高らかに笑う雷神の姿に、最後の画境に到達した宗達の姿を見たが、近づいてみると、寂しげで、泣いているようにも見え、複雑な表情をしている。
- 「風神雷神図屏風」の構図の特異性は、中央ニ扇にニ神の身体がまったく描かれていないこと、雷神が人間の表情に似ていること、風神が深い皺や白い眉毛など老人の顔貌であること、本来三本指の手、二本指の足である雷神をどちらも五本指で描いて神ではなく人間にしていること、赤色の肉身であるはずの雷神が白色であること、など。
- 宗達はどんな意味を「風神雷神図屏風」に込めたのか、雷神の「鉢巻」、「白色の肉体」、「ふんわりと軽やかな黒雲」から深意を探ってみたい。鉢巻は、菅原道真が雷神と化す謡曲『雷電』の装束の鉢巻を表し、黒雲は、同じくこの謡曲から、雷神が虚空に上ったときに乗った黒雲を描いたと考える。そして、白色には、白癩(皮膚が白くなる癩を当時そう呼んだ)を患い失明してなくなった素庵を重ね、自らも風神となって雷神に寄り添った。素庵は寛永九年六月二十二日に没しており、この屏風は翌年の夏までに、素庵の追善・鎮魂のために描かれたであろう。「耕作図屏風」や養源院の杉戸絵との共通点からも、これらが同時期の制作であると考える。
- 「風神雷神図屏風」は、清水寺の火事で焼失した風神像・雷神像が宗達を刺激し、宗達は素庵の一周忌のために制作したと考える。誰かが発注したわけでもなく、自分のために描いて手元に置いたため、落款印章は必要なかった。その後、江戸時代後期に俵屋・野野村家から近隣の臨済宗建仁寺に寄進されたと思われる。
十回の連続講座もこれにて終了。毎回時間オーバーで最後は慌ただしく終わってしまうような濃密な時間だった。先生もお疲れになったと思うが、聴くほうも頭の整理が追いつかなくて大変だった。そんなわけで、言い訳になるが、毎回テキストをなぞるようなまとめになってしまった、というよりまとめになっていない。なので、少しは自分の言葉でまとめたいと思うので、全体の簡単なまとめをまた後でやろうと思っている(実現できるかどうかわかりませんが)。
最後に、この講座の参加希望者が定員よりずっと多かったそうで、参加できなかった方のためにも、ウェブ上で講座のまとめをすることになったというお知らせがありました。しかも、講座でできなかった内容も追加されるとか。4月から順次アップしていくようなので、みなさんお楽しみに(そうなるとこのブログの記事はこっそり削除してしまったほうがいいかもしれない)。
また、将来的には出版も考えておられるようなので、これも楽しみに待つとしよう。