連続講座『宗達を検証する』講師:林進
第五回 古活字版・整版本「嵯峨本」の成立と展開 ―活字書体設計者としての素庵、装飾料紙作家としての宗達ー
10月18日 於:Bunkamura B1特設会場
今回のテーマは嵯峨本。角倉素庵書体に焦点を当てるもので、宗達は事実上お休み。これまで特記してこなかったが、この連続講座では、貴重なものを含めて講師が所蔵するさまざまな資料を惜しげもなく手にとって見させてくれるという特典がある。そのおかげで、理解度が増すのだが、一方で、手と目が忙しくなって耳が疎かになるという危険が・・・。
では本題に入りましょう。
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角倉素庵(1571-1632)は本姓吉田。与一という名だが、京角倉の当主の通名として長子が受け継いだため、混乱を避けるため素庵を使用する。
洛西嵯峨において父了以とともに土倉(金融業、屋号「角蔵」)で財をなし、幕府の許可を得て安南国(ベトナム)朱印船貿易で薬種、香木、中国書物を扱ったほか、富士川、高瀬川運河などの河川開鑿を行い、河川の保守、水上輸送の管理を行った。
学者になりたかった素庵は本業をやりながら、空き時間に本をよみ、歌をよみ、書をかき、そして書家として素庵流書を確立した。
こうした素庵のすべてが、千光寺大悲閣にある堀杏庵撰『素庵行状碑文』に書かれている。
当時、学者であっても自らの研究書や文章を生きているときに発表することはほとんどなく、死後、家族や弟子がまとめたり発表したりするのが一般的だった。上記の素庵行状にも素庵が数十巻もの研究書を書いていたことが書かれているが、それらは残っていない。業績として残そうというようなことがなかったのだ。
今日のテーマである「嵯峨本」についても、国文学や美術の面からだけでなく、現代でいうフォントの面でも大変重要な業績であるが、当時の常識としてあえてそれを記録したり評価するというようなものではなかった。
「嵯峨本」本体についても素庵がそれを行ったという記録がまったくない。唯一、『羅山林先生集』(1659)所収「羅山先生年譜」に、吉田玄之(角倉素庵)が嵯峨で『史記』を刊行したことが記されている。慶長八年(1603)刊『言経卿記』には公家が嵯峨から『史記』を取り寄せた旨が記されており、その後、宝永七年(1710)刊『弁疑書目録』に初めて「嵯峨本書目」が附載された。
川瀬一馬は『嵯峨本図考』(1932)で嵯峨本を「光悦が自ら版下を書き、其の装コウ(さんずいに広の旧字体)に美術的の意匠を施したもの、並びに光悦の書風・装コウ等を頗る豊富に具備する刻書」と定義づけた。「光悦の書跡」については旧説を踏襲したのみで実証研究することはなかった。
私は嵯峨本を「素庵自らが版下を書いた整版本、素庵書体に倣った活字(素庵書体を熟知した字彫り師)で印刷された活字本。具引地・雲母刷文様料紙を用い、美麗な装訂を施した本。素庵工房で刊行された本。覆刻本は除く。」と定義する。
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まだ序の口で、このあと、豊富な資料をもとに、素庵が写本することで書体を確立することになったこと、嵯峨本の書体等を比較検討することで、さまざまな検証を行っていくのだが、長くなるのでこのあたりで(手抜き御免!)。
講師は、嵯峨本が慶長年間に嵯峨において角倉素庵自ら企画出版した本で、嵯峨本活字は素庵自身がデザイン、印刷工房の字彫り師が活字を製作、木版雲母刷文様の表紙や本文料紙は俵屋宗達工房で製作された、と結論付ける。その結果、前回同様、光悦の書体とされてきたものの多くが実は素庵のものということになり、光悦は茶人、数寄者としてのみ残る。つまり、蒔絵も光悦の業績でなくなる、というほどのインパクトを与えるのだから、おいそれと納得できない人も多いだろう。しかし、光悦のものとされる仕事の多くが素庵の仕事であった可能性を指摘する研究が進められているのだから、これはやはり検証するしかないでしょう。それをやるのはいつか。今でしょ!(古い!)
10月26日から五島美術館で光悦展が開催されるので、ぜひ訪れて、展示されているものの多くが光悦ではなく素庵の手になるものかもしれない、という目で眺めてみたいとは思っている。