連続講座『宗達を検証する』第三回 国宝「平家納経」慶長7年(1602)補作の表紙絵・見返絵 ―誰が描いたのか、その絵に込められた意味とは―
8月24日 於:Bunkamura B1特設会場
宗達画の「かたち」と「こころ」、とくに「こころ=意味内容」に焦点をあてるシリーズの第3回。今回のテーマは『平家納経』慶長7年補作。
『平家納経』は、平清盛が厳島神社への崇敬の念と平家の繁栄を願って厳島神社に奉納した美麗な経巻で、三十二巻の経巻と清盛自筆の願文からなる。当時は神仏習合が一般的だったので、神社に写経を奉納するというのも別に不思議なことではなかった。
広島藩主となった福島正則は、四百数十年を経て相当に傷んでいた平家納経の修復を命じ、慶長7年5月に再び奉納した。この修復の際に、化城喩品と嘱累品の二巻の表紙絵・見返絵が補作されたほか、願文に新たに表紙絵・見返絵が加えられた。この合わせて6件が宗達の筆によるものと推定されているのである。
ちなみに、明治33年(1900)にも修理が行われ、また昭和大修理(昭和31-34年)の際には、薬草喩品の表紙絵と見返絵を安田靫彦が描いている。
宗達による補作。
化城喩品では、授記品にヒントを得て、表紙絵「浜松・洲流し」で引き潮を、見返絵「槇・磯山・満ち潮」で満ち潮を描いたが、この表紙絵は、保元の乱に敗れ讃岐国に流された崇徳上皇が詠んだ無常歌を絵画化したものと考えられる。
嘱累品では、表紙絵「磯辺・散る梅花」と見返絵「槇・磯辺・満ち潮・雲」を描いた。嘱累品見返絵のモティーフは、薬草喩品にいう「一味の雨」「三草二木」の喩え(衆生に素質、能力の差があっても、仏の教えを受ければ、悟りに入ることができる)を絵画化したものと考えられる。
この「三草二木」の例えをモティーフに、宗達は晩年に《槇檜図屏風》や《耕作図屏風》を描いている。
化城喩品と嘱累品が補作されたのは、表紙に装飾料紙(雁皮紙)ではなく、おそらく紗や羅のような脆弱な薄絹が使われたために再使用できないほどに劣化したためと推察する。
《槇檜図屏風》
新たに作られた願文の表紙「薄」には落日の薄の原が描かれ、見返絵「草を食む雌鹿」では鹿の半円の形によって山の端から昇る朝陽のイメージが重ねられている。この朝陽のモティーフは厳王品の料紙装飾「山の端の日輪」からヒントを得たのだろう。
願文の表紙絵と見返絵は「死」と「生」を象徴的に表したもので、過去の講座で宗達画の特徴とした「無常観」を意味する。
このほか、薄の「秋」と厳島神社の「安芸」、「鹿原」・「麓原」と「六波羅」(清盛の邸宅があった場所)という同音異義の言葉による遊び心もうかがえる。
このころ無名であった宗達が描いたのは、安田靫彦のように絵画作品としてではなく、あくまでも平清盛と崇徳院を追善供養するためであった。
なお、願文に、表紙絵と見返絵のほかに新たに附装された「櫛筆文書」の櫛筆の解釈についてはさまざまな説があるが、清盛がかつて平家納経に用いた写経筆(鹿毛筆)を櫛のように並べて櫛に見立てて奉納した、奉納目録なのではないか。この文書を守る意味で附装することを考えたのが角倉素庵だと考える。
福島正則より平家納経の修復を任されたのは誰か。豊臣家とのつながりで医師吉田宗恂かまたはその甥の角倉素庵と推察される。素庵は吉田宗恂が開設した古活字版印刷工房の事業を任されており、嵯峨の印刷工房で本の装訂と補修を行ったことがあることが書状で確認されている。そうした証拠から、慶長7年の平家納経修復が、素庵監修のもとで嵯峨印刷工房の経師によって行われ、表紙絵・見返絵について旧知の絵師宗達に依頼したと推理しているわけである。
講演は例によって大幅に時間オーバーとなり、最後は駆け足でした。