東京都写真美術館で「
木村伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン――東洋と西洋のまなざし」をみた。
2009.11.28-2010.2.7
チラシの写真はお互いが撮り合ったもの。
洋の東西で写真表現の新しい方向性を示した同時代のふたり。ライカという、人間の眼に近づいたカメラを得て初めて可能だった写真の視点がそこにはあった。
ふたりが目指したものは、写真をみるかぎり似ているようだ。けれどそこには決定的な違いがみてとれる。
木村伊兵衛にはピントの甘い写真があるけど、カルティエ=ブレッソンにはない。これは写真に求めているものが違うことの証明になると思う。写真にウエットさが漂う木村と、あくまでもドライな印象のカルティエ=ブレッソン。
木村は自らの気持ちに忠実であることを大事にしたような気がする。シャッターを切ったその瞬間と自分の心の揺れの一致を重視したのでは、と。だから木村の写真には木村の情感のようなものが表れている気がする。
カルティエ=ブレッソンの写真は構成に隙がなく、完成されている。写真に写っているものがすべてで、傍観者であり続けようとしていたように思える。
どちらの場合もただ漠然とそんな気がしただけで、本当のところはどうだったのだろう。
木村伊兵衛「永井荷風」(1954)
アンリ・カルティエ=ブレッソン「トラファルガー広場、ジョージ6世戴冠式の日、ロンドン」(1937)
アンリ・カルティエ=ブレッソン「ムフタール街、パリ」(1952)
ふたりの個性の違いが本展の最大のみどころであり、ふたりが撮った著名人たちのポートレイトを比較すると、かなりの違いがみえてくる。
僕が感じたのは、その著名人がまとっている雰囲気や職業性といったものを写したのが木村伊兵衛で、その人の人間性の本質に迫ろうとしたのがカルティエ=ブレッソンではないかということ。
木村が写した上村松園、川合玉堂らと、カルティエ=ブレッソンが写したボナール、ルオーらを比べてみると非常に興味深い。そのなかで今回いちばんインパクトがあったのはこれ。
アンリ・カルティエ=ブレッソン「アンドレ・マルロー」(1968)
「アルベルト・ジャコメッティ」(1961)もかなりユニークだったけど。
久しぶりたくさん写真を撮りたい気分になって、ちょうど下にある本を読み始めたばかりだったので、僕にとってはタイムリーな企画だった。あらためてモノクロの強さを確認することができたように思う。
せっかくだから読み終わってから行けばよかったのだろうけど。
|
クレマン・シェルー
創元社
¥ 1,680
(2009-04-14)
|