ユーロスペースで開催中の
タルコフスキー生誕80周年記念映画祭に行ってきた。前半に行けなかったので、後半のスケジュールのなかから『ストーカー』と『鏡』の2本に絞って観ることにした。時間があえば、ほかに『アンドレイ・ルブリョフ』や『僕の村は戦場だった』も観たかったのだが・・・。
(注:これは映画の感想ではありません)
ストーカー(1979年 モスフィルム)
原作はストルガツキー兄弟『路傍のピクニック』(邦題『ストーカー』)で脚本も兄弟の手によるもの。だが、アルカージー&ボリス・ストルガツキーは監督から10回ほどもシナリオを描き直させられたうえ、最終的には脚本家が意図したものとはまったく違う作品に仕上げられた。
実はこの作品、一度完成したものが現像の失敗で消滅しているらしく、現存する『ストーカー』は後に撮り直しされたバージョンである。
映画に登場するガイド役の“ストーカー”は「気弱なインテリ」だが、原作でもシナリオでも彼は<ゾーン>から命がけでブツを運び出して生活している密猟者(=ストーカー)だ。最初の完成時はおそらくシナリオに近い人物造形だったものが、撮り直されたときにどうやら変更されたらしい。ストーカー役のアレクサンドル・カイダノフスキーは、ニキータ・ミハルコフ『光と影のバラード』のようにアクションで知られる俳優だけに、アウトローの雰囲気にぴったりで、そんなことからも、当初の構想は原作寄りだったはずだ(この役柄変更は、以前から俳優業に矛盾を感じていたというカイダノフスキーには辛かったのか、このあと監督業へと転身している)。
主人公の造形変更とともに議論を呼ぶのが、最後のシーンだろう。シナリオではストーカーの妻によるモノローグのあとにあるのは、映画のようなシーンではまったくない。映画でのラスト・シーンに監督が込めた意味を推察することはできるが、やや唐突な印象がある。
このあたりの経緯のいくつかは、シナリオの1本として発表された『願望機』に詳しいし、それ以外にもタルコフスキー研究者がいろいろ書いているので、興味があれば探してみるとおもしろいかもしれない。
研究書を読まなくても、映画『ストーカー』を観て、原作の『ストーカー』(ハヤカワ文庫)とシナリオ『願望機』(群像社)を読めば、どっぷりとこのゾーンをめぐる物語に触れることができるので、いちどお試しあれ。
(ところで、ハヤカワ文庫の『ストーカー』はもしや絶版? もしそうなら、そろそろタイトルを原題に合わせて変更して復刊してくれませんかね。)
何度も観ている『ストーカー』に対して、『鏡』はようやく2回目(もしくは3回目)の鑑賞。夢と現実、過去と現在を重層的に描いた映像にまたしても幻惑させられた。
でも体調良かったせいか、最後まで飽きないでみれました。いろいろ見てる側が考えさせられるのが、この監督の面白さですね。ゾーンの意味とかね。
仙台 アマチュア漫画家