2017.06.11 Sunday

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2014.03.25 Tuesday

宗達を検証する(10)風神雷神図屏風と伊勢物語図色紙の成立

連続講座「宗達を検証する」第10回 講師:林進
国宝「風神雷神図屏風」と増田家旧蔵「伊勢物語図色紙」(全36図)の成立 ―その制作年と制作意図に共通するものとはー
3月22日 於:Bunkamura B1特設会場

この連続講座もいよいよ最終回となり、管理人もどうにか休むことなく、この知的興奮に満ちた楽しい講座を堪能しました。

今回のテーマは「風神雷神図屏風」。これがいつ、どういう目的で制作されたのかを、制作年がある程度推定できる「伊勢物語図色紙」との共通点を探ることで解き明かそうとする試み。

  • 宗達の出自と社会的基盤については、京の上層町衆出身の絵師とする説と、六原の絵師とする説がある。前者は論拠とする「妙持宛 千少庵書状」にある「俵屋宗達」が絵師である確証が得られていない。後者は「宗舟・平次宛 角倉素庵書状」に「六原ノ絵かき」とあり、素庵と関係する町絵師が実在したことを論拠としているが、それが宗達であるかは不明である。が、後者の説に基づくことで、宗達の実像の一端を掴むことができると考える。
  • 宗達にとってのターニングポイントは、角倉素庵が癩(ハンセン病)を患い隠棲したことである。当時、癩者は、乞食として放浪の旅に出るか、東山・清水坂の非人宿に入って物乞いの生活を送るかの選択しかなかったが、素庵の場合は息子たちや周囲のはからいで嵯峨千光寺跡地に隠棲して静かな学究生活を送ることができた。
  • 宗達は素庵が校訂した『本朝文粋』の出版で恩に報いようとした。癩者に直接関わることは世間の掟に背くことであり、おそらく宗達はそれを機に絵筆を置くことを決意していた。しかしこの出版によって法橋に叙位され、絵の進上を余儀なくされ、更なる注文が入り、絵師を辞めることができなくなった。宗達は東福門院に依頼された養源院本堂の襖絵と杉戸絵を描き終えて寛永十年に絵筆を置いた。
  • 俵屋で制作された「伊勢物語図色紙」は宗達芸術の集大成の一つ。三十六図からなる益田孝旧蔵「伊勢物語図色紙」画帖(益田家本)は、俵屋工房で制作された他の同色紙群より先駆けて作られた作品で、宗達が『伊勢物語』から三十一段の章段を選んで、構図を考え、下絵を付け、工房の絵師の協力を得て制作した。一般に「伝宗達筆」とされているが、「宗達筆」とすべきである。
  • 山根有三氏は同色紙の第三十九段「女車の蛍」を掛け軸に改装する際に古い裏打紙に「高松様」と書かれた紙片を発見し、詞書の染筆者を示す裏書であることを突き止めた。その他の段も含めた裏書の研究から、色紙絵の制作が寛永十年夏までには終わっていたと考えられる。また、行方不明になり再発見された「女車の蛍」が再び改装された際には、宗達自筆の指示書が発見され、それは宗達が配下の者に主要モティーフを正確に描くことを求めたものと解釈される指示であった。この指示書の筆跡は「快庵宛 宗達書状」の筆跡と共通しており、この宗達書状が絵師宗達のものであることが確認された(快庵は素庵の親戚で医師の吉田快庵)。
  • 江戸時代初期から二曲一双屏風が好まれるようになり、宗達筆「舞楽図屏風」と「風神雷神図屏風」はその代表作。「風神雷神図屏風」は、風神と雷神を一双の両端上部に配置し、中央ニ扇はほぼ金地の虚空として広い空間を感じさせる。風神と雷神を水平視で描くことで親しみのある人間的な鬼神を感じさせる。たらし込み、太い輪郭線描写など、宗達の特徴が表れている(三寸金箔押しの手法は狩野山楽と同じであり、宗達はやはり狩野派であったろうと思う)。山根有三氏は、高らかに笑う雷神の姿に、最後の画境に到達した宗達の姿を見たが、近づいてみると、寂しげで、泣いているようにも見え、複雑な表情をしている。
  • 「風神雷神図屏風」の構図の特異性は、中央ニ扇にニ神の身体がまったく描かれていないこと、雷神が人間の表情に似ていること、風神が深い皺や白い眉毛など老人の顔貌であること、本来三本指の手、二本指の足である雷神をどちらも五本指で描いて神ではなく人間にしていること、赤色の肉身であるはずの雷神が白色であること、など。
  • 宗達はどんな意味を「風神雷神図屏風」に込めたのか、雷神の「鉢巻」、「白色の肉体」、「ふんわりと軽やかな黒雲」から深意を探ってみたい。鉢巻は、菅原道真が雷神と化す謡曲『雷電』の装束の鉢巻を表し、黒雲は、同じくこの謡曲から、雷神が虚空に上ったときに乗った黒雲を描いたと考える。そして、白色には、白癩(皮膚が白くなる癩を当時そう呼んだ)を患い失明してなくなった素庵を重ね、自らも風神となって雷神に寄り添った。素庵は寛永九年六月二十二日に没しており、この屏風は翌年の夏までに、素庵の追善・鎮魂のために描かれたであろう。「耕作図屏風」や養源院の杉戸絵との共通点からも、これらが同時期の制作であると考える。
  • 「風神雷神図屏風」は、清水寺の火事で焼失した風神像・雷神像が宗達を刺激し、宗達は素庵の一周忌のために制作したと考える。誰かが発注したわけでもなく、自分のために描いて手元に置いたため、落款印章は必要なかった。その後、江戸時代後期に俵屋・野野村家から近隣の臨済宗建仁寺に寄進されたと思われる。

十回の連続講座もこれにて終了。毎回時間オーバーで最後は慌ただしく終わってしまうような濃密な時間だった。先生もお疲れになったと思うが、聴くほうも頭の整理が追いつかなくて大変だった。そんなわけで、言い訳になるが、毎回テキストをなぞるようなまとめになってしまった、というよりまとめになっていない。なので、少しは自分の言葉でまとめたいと思うので、全体の簡単なまとめをまた後でやろうと思っている(実現できるかどうかわかりませんが)。

最後に、この講座の参加希望者が定員よりずっと多かったそうで、参加できなかった方のためにも、ウェブ上で講座のまとめをすることになったというお知らせがありました。しかも、講座でできなかった内容も追加されるとか。4月から順次アップしていくようなので、みなさんお楽しみに(そうなるとこのブログの記事はこっそり削除してしまったほうがいいかもしれない)。
また、将来的には出版も考えておられるようなので、これも楽しみに待つとしよう。

2014.03.02 Sunday

宗達を検証する(9)養源院の襖絵「松岩図」・杉戸絵「白象図ほか」

連続講座「宗達を検証する」第9回 講師:林進
重要文化財 養源院の襖絵「松岩図」・杉戸絵「白象図ほか」―制作の依頼者、趣旨、制作年についてー
2月22日 於:Bunkamura B1特設会場

今回は忘れないうちにさっさと仕上げてしまいましょう。
第9回のテーマは、俵屋宗達の大画面作品である屏風絵・襖絵・杉戸絵の制作時期がいつで制作意図は何なのかということ。山根有三説などと比較しながら検討する。

宗達が法橋に叙位された時期。山根有三は寛永元年(1624)頃(養源院再建のあと)、水尾比呂志は元和元年(1615)前後(嵯峨本料紙の評価)、山川武は元和八年(1622)(養源院再建のあと)、林進は寛永七年(1630)(本朝文粋刊行後)。水尾と林では15年の開きがある。

大画面作品の制作時期を山根有三と林進の説で比較する(講師参考資料を元に管理人が作成)
宗達大画面制作時期

林進説は山根有三が骨子をつくり、受け継がれている宗達研究をいわばちゃぶ台返しするものである(本人談)。山根説は絵の様式を強く意識している。

  • 養源院は淀君が父浅井長政ら浅井一族の菩提を弔うため長政二十一回忌に当たる文禄三年(1594)に豊臣秀吉に頼んで建立、長政の法号養源院を寺号とした。元和元年(1619)に火災により焼失したが同七年、淀君の妹、徳川秀忠夫人(江、崇源院)により再興された。養源院に現存する宗達の襖絵・杉戸絵は宗達研究で最重要なものである。
  • 養源院本堂第五室(室中の間)は襖絵「松岩図」が取り囲むという特異な構成になっている。金地の画面いっぱいに地を這うような松の巨樹を描き、それに呼応する大小の岩を配置する。狩野派のような金碧障壁画と違って、空間の奥行きを表す遠山や池水、金運や土坡のモティーフはない。狩野派は金箔の奥にいろいろ描いて奥行きを表現するが、宗達は金箔の奥に何も描かない。遠景を描かないことで、むしろ手前にあるものを表現する。それは能舞台のように、現実的でないもの、法要を行う場所である室中に永遠性への祈りを込めた。「松岩図」は、潮が引いた浜辺・洲浜を表したもの、つまり宗達が繰り返し描いた無常観がモティーフである。
  • 養源院本堂南廂(西側)の杉戸絵「唐獅子図」二枚のうち左が正面を向くというあまりみられない構図だが、東大寺の金銅八角大燈籠の火袋に見る半肉彫の唐獅子の姿に通じるものがある。これらの裏面の「立つ波に水犀図」は従来麒麟といわれてきたが、水に棲む霊獣の水犀である。南廂(東側)の杉戸絵「白象図」「唐獅子図」も含めて、それぞれ二頭が円環する動きを見せており、これは二曲一双の屏風絵の構図を意識したもので、「風神雷神図屏風」と共通する。「唐獅子」は邪悪なものを防ぐもの、「水犀」は火除け、「白象」は仏をお守りする霊獣を表しており、どれも隙間なく画面いっぱいに描いて、災難や火を通さないことを示している。
  • 山根有三は、養源院再興に際して本堂襖絵を狩野派の絵師が担当したが、何らかの理由で完成に至らず、崇源院と関係があった呉服屋の雁金屋尾形宗柏の推薦により、本阿弥光悦と関係があった宗達が襖絵の制作を行うことになり、この功績により法橋が叙位されたと推察した。
  • 私は、養源院の襖絵と杉戸絵の造形的特徴は寛永十年頃に描かれた増田家本「伊勢物語図色紙」や「風神雷神図屏風」のそれと共通すると考える。崇源院七回忌の寛永九年には東福門院の要請により祖父浅井長政に従二位権中納言が追贈されており、養源院(長政)の追善として東福門院が改めて宗達に襖絵制作を命じたのではないだろうか。

    俵屋宗達_唐獅子図俵屋宗達_立つ波に水犀図俵屋宗達_白象図
今回は養源院再興と襖絵と杉戸絵の制作に迫った。東福門院が浅井長政を追善する目的で宗達に制作を依頼、そのことによって制作年が導かれるという論旨であった。次回の講座最終回、「風神雷神図屏風」と「伊勢物語図色紙」との関係においてさらに深められるのか、期待したい。

なんと、講座に参加して養源院絵葉書セットまでお土産にいただいてしまった。ありがたいことです。養源院は三十三間堂の東向いにあって、宗達の襖絵と杉戸絵が常時公開されているそうなので、三十三間堂観光のついでに訪れてみてはいかがでしょう。

2014.02.23 Sunday

宗達を検証する(8)「楊梅図屏風」の様式と主題

連続講座「宗達を検証する」第8回 講師:林進
紙本金地著色「楊梅(やまもも)図屏風」(個人蔵)の様式と主題 ―「一条兼遐(かねとお)書状[後水尾院勘返状]」に言う「楊梅之屏風」との関係―
1月18日 於:Bunkamura B1特設会場

まとめもせずにぼやぼやしているうちに次の第9回が終わってしまったので、もう忘却の彼方へと去ってしまったけども、テキストを頼りに第8回をどうにかやっつけたいと思います。
俵屋宗達_楊梅図屏風

  • 1998年に現れた「花木図屏風」。1939年に上野の日本美術協会で開かれた「東洋古美術展観」で彩色「流ニ秋草図屏風」として公開された作品。1999年から12年かけて修復された。現在個人蔵。
  • 落款・印章、書付もないが、白波を立てて流れる渓川の水の技法や筆法は宗達のものだ。楊梅の実の表現が印象深く、何か特別な意味があると考え、『楊梅図屏風』と名付けることにした。
  • 「醍醐家文書」の一通、「御せん丸宛 一条兼遐書状(後水尾院勘返状)」は次のようなもの。簡単に言うと「宗達がわたし(一条兼遐)に、屏風三双に下絵を描きつけ終えた、三双のうち『楊梅之図』はいち早く金箔を置き終えた、と言ってきた」という内容。
  • 屏風三双は、寛永7年の法橋叙位の返礼として三御所(明正天皇、後水尾院、東福門院)に進上するもので、このうち後水尾院から兼題として与えられたのが「楊梅之屏風」だったと考察する。狩野山雪が法橋叙位の御礼として、四御所に屏風四双を進上しているのと同様のケースと考えられる。御所からの注文のため落款等がない。
  • 「楊梅図屏風」の下地処理は「槇檜図屏風」(石川県立美術館蔵)と同じ、川波の均一で伸びやかな水墨線は「松島図屏風」(フリーア美術館蔵)の海波と同じ線質、なだらかな曲線の緑青土坡は「源氏物語図屏風・関屋図」(静嘉堂文庫美術館蔵)と同じ形。
  • 朝廷は素庵校訂古活字本『本朝文粋』を野野村知求(宗達の学者名か)が出版した功績に対する褒賞として1630年春に宗達に法橋を叙位したと考える。慣例となっている叙位への返礼は、中和門院の崩御と明正天皇の即位などの事情があって遅れたようだが、後水尾院は仙洞御所進上の屏風一双に自ら選んだ画題「楊梅」を金箔地に描くことを命じた。
  • 後水尾院は、亡き母、中和門院の好物であった楊梅の実を手向けの果実として追善するために、楊梅の兼題を宗達に与えたのではないだろうか。長く棚引く「紫(銀)の雲」は皇后の異称であり、弔いの意味がある。これを受けて宗達は、楊梅のモティーフを趣向(横筋)とし、直前に模写した海田采女本『西行法師行状絵詞』を「時代」(縦筋)として構想したのではないか。第一巻第一段に描かれた鳥羽殿の場面、第一番目の障子絵をみて西行が「初春の雪積りたる山の麓に谷河の流れたる所を見て」と詠んだ、その障子絵を再び屏風絵として絵画化したものである。
  • 1939年の「東洋古美術展観」では彩色「流ニ秋草図屏風」とともに「雑木林図屏風」が展示され、同図録に二つの屏風が同じページに単色図版で掲載された。この「雑木林図屏風」は、宗達工房作「樹林図屏風」(フリーア美術館蔵)等と構図が共通することから、「楊梅図屏風」の対として描かれた宗達作品と考える。名付けるとしたら「花橘図屏風」となる。
  • 〔第9回での補足〕「花橘図屏風」では、西行が詠んだ「聞かずとも此処を瀬にせむ郭公 山田の原の杉の群立ち」を構図したものに、郭公(ホトトギス)と取り合わされて詠まれてきた白い花橘を描き入れた。
  • 宗達の出身地について。野野村知求、江村知求などの名前から考えて、近江国(江州)野洲群野村、つまり近江八幡ではないかと想像している。堀杏庵も同じ出身地。

今回の重要点。寛永6年(1929)に角倉素庵校・野野村知求(宗達か)刻の古活字版『本朝文粋』が刊行され、翌年に尾張初代藩主徳川義直に進上、禁裏、公家等に献上され、この功績により同年、法橋が叙位されたと推測していることである。そして、その御礼として三御所に進上された三双のうち、後水尾院に進上されたのが「楊梅図屏風」であり、その対をなすのが「花橘図屏風」(旧「雑木林図屏風」)であったという見方である。
この一連の考え方は宗達作品の制作時期にかかわるので、非常に重要な指摘である。それについては第9回で。

2013.12.31 Tuesday

宗達を検証する(7)重要文化財「西行物語絵巻」の改変

連続講座「宗達を検証する」第7回 講師:林進
重要文化財「西行物語絵巻」(宗達模写、出光美術館)の改変 ―西行往生の場面における「無常」の表象について―
12月14日 於:Bunkamura B1特設会場

『西行物語絵巻』の写本や絵巻を比較しながら、宗達模写の絵巻について、講師曰く「重箱の隅をつつくように」読み解こうという試み。こうやって細かなところを解き明かしていく姿勢が美術史(に限らないだろうが)なのかと、とても興味深く拝聴したので、長くなってしまっていました。

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平安末鎌倉初期の歌人西行の発心、修行、往生を物語化した「西行物語」を絵画化したものが「西行物語絵」であり、写本、絵巻、版本が多数伝わる。
このうち「西行物語絵巻」は、文字でしるした詞書とそれに対応する絵をあわせて数巻の巻物に仕立てた作品。文章の内容によって三系統に分類される。
(1)広本系:物語量が最大のテキスト。出家後の西行がすぐに吉野、熊野、大峰をめぐる旅に出る話で始まる。
‘狙酥術館本と相国寺承天閣美術館本はもとは同じ四、五巻セットの絵巻のうちのそれぞれ一巻で、鎌倉時代(13世紀中頃)の制作と推定(詞書と絵の筆者不明)。
▲汽鵐肇蝓屡術館白描本は南北朝時代の制作と推定。
(2)略本系:出家後の西行がすぐに伊勢に赴く本。
.汽鵐肇蝓屡術館著色本は三巻本で、室町時代(15世紀頃)の制作と推定(詞書と絵の筆者不明)。
(3)采女本系:明応九年(1500年)に三条公敦が詞書を書き、梅田采女佑源相保が絵を描いた絵巻の系統。原本は伝わっておらず、近世の模本がある。
…天擴筏貘∨楔浚本
▲札鵐船絅蝓屡術館本四巻本
出光美術館本・宗達模写本四巻本
づ亙娉繁槝惨本

この出光美術館本は、制作年がわかる宗達の基準作のひとつということで重要。制作由来には、権大納言烏丸光広が越前福井藩主松平忠昌の家老の依頼により、禁裏御文庫に収蔵されている『西行法師行状之絵詞』四巻(采女本)を借りだして、模写本の制作を法橋宗達に命じた、とある。宗達の模写が完成した後、光広が染筆した。寛永七年(1630)のことである。
宗達模写本は松平忠昌から長州藩主毛利家に渡った。現在、四巻のうち第一巻、第二巻、第四巻は出光美術館に所蔵され、第三巻は断簡となって掛幅装に改装され、出光美術館ほかに分蔵されている。
い療亙娉繁椶蓮⊇|の模写と同時に許可を得て俵屋絵師によって模写された「手控え本」で、留めおく目的で素早く簡略に描いたものである。

…天擴筏貘∨椶鉢▲札鵐船絅蝓屡術館本(以下、セ美本)は原本を忠実に模写したものと推定され、づ亙娉繁椶盍蔑化されているものの、同様である。宗達筆の出光美術館本だけが異なる特徴をもっている。渡辺家本がのっぺりと薄いのに対して、宗達筆ははっきりとメリハリ、奥行き感があり、宗達画の特徴に一致する。

出光美術館本第四巻十二段「西行往生」では、原本からの明らかな改変がある。
もっとも重要なのは、西行が阿弥陀如来像に向かって合掌する東山双林寺の室内(阿弥陀堂)が、宗達筆ではすべて畳敷きであるのに対して、セ美本と渡辺家本では阿弥陀如来像が立つ部分が板敷きで、残りが畳となっていること、そして、左側の池のある庭に立つ二本の桜が、セ美本では散りかけた白い花、渡辺家本では花盛りの桜色となっているのに対して、宗達筆では葉桜になっていることだ。

西行物語絵巻
(講座テキストより)

宗達はなぜそのような改変をおこなったのだろう。
西行が葉桜の名残を詠んだ和歌一首「青葉さへ見れば心のとまるかな 散りにし花の名残りを思へば」に即して絵画化し、西行への追善の意を込め、西行の死を描かずに青葉への時間の推移を描いて無常観を表したのではないか。そして室内のほうは、阿弥陀堂ではなく庵室で往生の期を待つ西行のもとに阿弥陀如来が来迎し、畳の上にそっと座られた、と解釈できる。
庵室と庭を同じ時間で描いたのではなく、絵巻の伝統を応用して、右側の庵室の場面から左側の葉桜へと時間の経過を描いて、宗達なりの無常観を表現したのではないだろうか。

絵画の制作は依頼者に向かって行うこともあれば、この場面のように西行(あるいは西行の和歌)に対して描くこともあっただろう。ここで表現した無常観を果たして依頼者がわかっただろうか。

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模写はただ絵を写しとるだけでなく、物語に込められたさまざまなものに寄り添うことで、あらたな可能性がみえてくる、そんな解釈があるのかもしれない。そんなことをつらつらと考えさせられる講義だった。

2013.12.30 Monday

宗達を検証する(6)国宝「蓮池水禽図」

連続講座『宗達を検証する』講師:林進
第6回 国宝「蓮池水禽図」―宗達絵画の《時間》についてー
11月16日 於:Bunkamura B1特設会場

この第6回講座から1か月以上も経って、今年も暮れようとしています。早めに下書きをして放っておいたら第7回がやってきてしまい、相当重い腰を上げたところ、下書きがない!という驚愕の事態となったため、あらためて書き直しとなりました。どうにかこうにか記憶をたどりつつ、なんとか仕上げたいと思います。

俵屋宗達の水墨画の到達点である《蓮池水禽図》で宗達が何を描いたのかが今回のテーマ。同時に、”町絵師宗達の初期の水墨画”とする定説に挑む。

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宗達_蓮池水禽図
国宝《蓮池水禽図》は現存する宗達水墨画として最初の作品(元和初年頃)でありながら、すでに最高の表現に達する、というのが定説になっている(山根有三「宗達と水墨画」『宗達研究 二』1966)。山根氏は、金銀泥下絵の色紙や和歌巻の制作過程において、水墨画を描きはしなかったが、絶えず牧谿の水墨画を意識していたと述べている。
これは宗達が京都の上層町衆出身の画家とみる考えに基づくものがだ、では、金銀泥下絵のデッサン力をいかに身につけたのか。さらには、《龍雲図屏風》の大画面構成、《楊梅図屏風》《舞楽図屏風》《風神雷神図屏風》の金箔押地、益田家本《宗達伊勢物語図色紙》の大和絵「つくり絵」の表現法が、はたして町絵師に可能だろうか。

宗達は狩野派で技法を学んだとみる。宗達がはじめ狩野永徳の弟子であったとの説がある(『皇朝名画拾彙』)。狩野永徳が没した後、絵草紙屋を営んだ狩野一雲や、屏風絵所を開いた沼津乗昌のように、弟子の一部は狩野派を離れ、町絵師となった。宗達も六原で俵屋を開いたと考えられる。
宗達は元和期以降、押絵貼屏風のための扇面図、水墨画を描くことが多くなり、やがて法橋に叙位されたことで、はからずも屏風絵や襖絵、杉戸絵を描かざるを得なかったのだ。寛永十年ころに《養源院襖絵》《白鷺図》《神農図》を最後に引退したと考える。《蓮池水禽図》はおそらく法橋叙位の少し前の作だろう。

《蓮池水禽図》は具引きを施し、その白い素地により水墨の濃淡の深みが生まれ、外隅によって白蓮の花の白が浮かび上がる。水墨の斑はたらし込みだ。この図で使い分けられている多様な描線は非凡な才能と鋭敏な感覚を持つものの手になるものだ。

宗達は金銀泥画や水墨画などを描くとき、とくに「時間の推移」の表現に心を配る。この点は俵屋の絵師たちと異なるところである。《金銀泥蓮下絵百人一首和歌巻》では蓮の一生、《金銀泥四季花卉下絵古今和歌巻》では四季の花卉・花木を描いて四季の移りを表した。
《蓮池水禽図》は蕾から花托までのわずか4日の蓮の花の生命のうち、開花4日目と花托寸前の姿を描いている。画面左側の薄墨は水に沈む敗荷。宗達は終わりゆく生命の最期の輝きを表現するとともに、次に生まれ来るものへの期待感を込めた。
早朝、やわらかな陽の光が蓮池の水面を照らし始め、カイツブリの一日が始める場面で、蓮の花とカイツブリの生命の形を対照的に描いたのだ。


さて、この後も続くのだが、もうひとつ、《槇檜図屏風》(石川県立美術館)について。この図の主題は、陽の光のように輝いているが、ここで描かれているのは、槇檜樅の叢林に降り注ぐ慈雨なのである。「かの大雲の、一切の卉木、叢林及び諸の薬草に雨るに、その種性に如って、具足して潤を蒙り、各、生長することを得る」(『法華経』「薬草喩品」)

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宗達が狩野派で技法を習得し、その後町絵師となって、水墨画や大画面、金箔押地、杉戸絵などを描いた、という話はなかなか納得できるが、いかんせんはっきりした証拠がないのが残念だ。

2013.10.20 Sunday

宗達を検証する(5)古活字版・整版本「嵯峨本」の成立と展開

連続講座『宗達を検証する』講師:林進
第五回 古活字版・整版本「嵯峨本」の成立と展開 ―活字書体設計者としての素庵、装飾料紙作家としての宗達ー
10月18日 於:Bunkamura B1特設会場
 
今回のテーマは嵯峨本。角倉素庵書体に焦点を当てるもので、宗達は事実上お休み。これまで特記してこなかったが、この連続講座では、貴重なものを含めて講師が所蔵するさまざまな資料を惜しげもなく手にとって見させてくれるという特典がある。そのおかげで、理解度が増すのだが、一方で、手と目が忙しくなって耳が疎かになるという危険が・・・。
では本題に入りましょう。

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角倉素庵(1571-1632)は本姓吉田。与一という名だが、京角倉の当主の通名として長子が受け継いだため、混乱を避けるため素庵を使用する。
洛西嵯峨において父了以とともに土倉(金融業、屋号「角蔵」)で財をなし、幕府の許可を得て安南国(ベトナム)朱印船貿易で薬種、香木、中国書物を扱ったほか、富士川、高瀬川運河などの河川開鑿を行い、河川の保守、水上輸送の管理を行った。
学者になりたかった素庵は本業をやりながら、空き時間に本をよみ、歌をよみ、書をかき、そして書家として素庵流書を確立した。
こうした素庵のすべてが、千光寺大悲閣にある堀杏庵撰『素庵行状碑文』に書かれている。
 
当時、学者であっても自らの研究書や文章を生きているときに発表することはほとんどなく、死後、家族や弟子がまとめたり発表したりするのが一般的だった。上記の素庵行状にも素庵が数十巻もの研究書を書いていたことが書かれているが、それらは残っていない。業績として残そうというようなことがなかったのだ。
今日のテーマである「嵯峨本」についても、国文学や美術の面からだけでなく、現代でいうフォントの面でも大変重要な業績であるが、当時の常識としてあえてそれを記録したり評価するというようなものではなかった。
「嵯峨本」本体についても素庵がそれを行ったという記録がまったくない。唯一、『羅山林先生集』(1659)所収「羅山先生年譜」に、吉田玄之(角倉素庵)が嵯峨で『史記』を刊行したことが記されている。慶長八年(1603)刊『言経卿記』には公家が嵯峨から『史記』を取り寄せた旨が記されており、その後、宝永七年(1710)刊『弁疑書目録』に初めて「嵯峨本書目」が附載された。

川瀬一馬は『嵯峨本図考』(1932)で嵯峨本を「光悦が自ら版下を書き、其の装コウ(さんずいに広の旧字体)に美術的の意匠を施したもの、並びに光悦の書風・装コウ等を頗る豊富に具備する刻書」と定義づけた。「光悦の書跡」については旧説を踏襲したのみで実証研究することはなかった。
私は嵯峨本を「素庵自らが版下を書いた整版本、素庵書体に倣った活字(素庵書体を熟知した字彫り師)で印刷された活字本。具引地・雲母刷文様料紙を用い、美麗な装訂を施した本。素庵工房で刊行された本。覆刻本は除く。」と定義する。

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まだ序の口で、このあと、豊富な資料をもとに、素庵が写本することで書体を確立することになったこと、嵯峨本の書体等を比較検討することで、さまざまな検証を行っていくのだが、長くなるのでこのあたりで(手抜き御免!)。
講師は、嵯峨本が慶長年間に嵯峨において角倉素庵自ら企画出版した本で、嵯峨本活字は素庵自身がデザイン、印刷工房の字彫り師が活字を製作、木版雲母刷文様の表紙や本文料紙は俵屋宗達工房で製作された、と結論付ける。その結果、前回同様、光悦の書体とされてきたものの多くが実は素庵のものということになり、光悦は茶人、数寄者としてのみ残る。つまり、蒔絵も光悦の業績でなくなる、というほどのインパクトを与えるのだから、おいそれと納得できない人も多いだろう。しかし、光悦のものとされる仕事の多くが素庵の仕事であった可能性を指摘する研究が進められているのだから、これはやはり検証するしかないでしょう。それをやるのはいつか。今でしょ!(古い!)

10月26日から五島美術館で光悦展が開催されるので、ぜひ訪れて、展示されているものの多くが光悦ではなく素庵の手になるものかもしれない、という目で眺めてみたいとは思っている。
 

2013.10.06 Sunday

宗達を検証する(4)鶴下絵三十六歌仙和歌巻

連続講座『宗達を検証する』 講師:林進
第四回 重要文化財「金銀泥鶴下絵三十六歌仙和歌巻」―和歌は誰が揮毫したか、下絵のテーマは何かー
9月28日 於:Bunkamura B1特設会場
 
今回のテーマは、俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》で、和歌を揮毫したのがほんとうに光悦だったのか、という問いである。これまでこれが光悦であることを疑ったものはいないが、講師は自らが「角倉素庵症候群」にかかっていることを認めたうえで、これが角倉素庵の筆になるとの説を展開する。
 
光悦説の決定的証拠とされるのが、和歌本文の後に捺されている「光悦」黒文方印である。しかし、古歌染筆では染筆者が署名捺印しないことが慣習であることから、これが後世に押印されたものと疑う理由となる。
書き間違いが多いこと、左9の源の公忠朝臣「行やらで」の「行く」の送り「く」を書かないことは、素庵の特徴である。
和歌版下が素案自筆となる嵯峨本『尊円本三十六人歌合』と《鶴下絵》の書体を比較すると、似ているといえば似ているし、似ていないといえば似ていないが、共通する書体もある(示された資料をみるかぎり、同一人物だと思わせる書体もあるし、全体の雰囲気も似ていると思う。素庵書体の基準資料となる巻子・冊子をみても、似ていると感じる)。
書法では、素庵が露峰、光悦が蔵峰という対照的な起筆で、《鶴下絵》は露峰である(光悦基準書体である「光悦書状」などをみても、いわゆる光悦宗達コンビの作品の筆はどれも光悦ではないようにみえる)。
 
講師が指摘した証拠によって直ちに角倉素庵が揮毫したものとなるわけではないが、あらためて検証する意味はあるのではないか。
ここには、もう一方の疑問、つまり、それならばなぜ本阿弥光悦とされたきたのかという問いが浮かび上がる。講師は、後に光悦関連本(というよりは素庵関連本)が復刻された際に、光悦の署名捺印が付けられて光悦が神格化されていったのだと指摘する。
 
1632年に没した角倉素庵は能書家として有名で、その5年後に没した本阿弥光悦は短冊・色紙を染筆したことが知られていたが書家としてそこまで有名ではなかった(有名ではなかった、という部分は自分の勘違いかもしれないが)。
後に復刻された『本朝名公墨宝』において、素庵書体で素庵が揮毫した和歌巻に編集者が元の本にはなかった「本阿弥光悦」の署名を入れ、「光悦の書」として刊行したところから神格化への捏造が始まったとみられる。江戸期にはその後も、《鶴下絵》同様に、あるはずがない「光悦」印(模刻)の入った書物、復刻本等が出現、ついには「光悦流」まで登場、その下に「角倉流」が入るものまで現れた。こうした出版物によって光悦神格化が進み、明治期にそれが完成する。
 
放っておいたためうろ覚えの部分も多いし、長くなるので説明の多くを端折ったが、《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》を揮毫したのは角倉素庵だとの講師説には説得力があり、仮に素庵でないことがわかるにしても、光悦説が再検証されることがあればよいのにと願わずにいられなかった。
それに、これだけ宗達との関係が深い角倉素庵の名前が、宗達関連の展覧会等で全然出てこないというのは、あまりにも寂しいではありませんか。
 
 
今回のもう一つの「下絵のテーマは何か」については省略するが、あのすばらしい下絵をぜひこちらのサイトでごらんください。鶴たちが動きます。
 
 

2013.08.25 Sunday

宗達を検証する(3)「平家納経」慶長7年補作の表紙絵・見返絵

連続講座『宗達を検証する』
第三回 国宝「平家納経」慶長7年(1602)補作の表紙絵・見返絵 ―誰が描いたのか、その絵に込められた意味とは―
8月24日 於:Bunkamura B1特設会場

宗達画の「かたち」と「こころ」、とくに「こころ=意味内容」に焦点をあてるシリーズの第3回。今回のテーマは『平家納経』慶長7年補作。

『平家納経』は、平清盛が厳島神社への崇敬の念と平家の繁栄を願って厳島神社に奉納した美麗な経巻で、三十二巻の経巻と清盛自筆の願文からなる。当時は神仏習合が一般的だったので、神社に写経を奉納するというのも別に不思議なことではなかった。

広島藩主となった福島正則は、四百数十年を経て相当に傷んでいた平家納経の修復を命じ、慶長7年5月に再び奉納した。この修復の際に、化城喩品と嘱累品の二巻の表紙絵・見返絵が補作されたほか、願文に新たに表紙絵・見返絵が加えられた。この合わせて6件が宗達の筆によるものと推定されているのである。
ちなみに、明治33年(1900)にも修理が行われ、また昭和大修理(昭和31-34年)の際には、薬草喩品の表紙絵と見返絵を安田靫彦が描いている。

宗達による補作。
化城喩品では、授記品にヒントを得て、表紙絵「浜松・洲流し」で引き潮を、見返絵「槇・磯山・満ち潮」で満ち潮を描いたが、この表紙絵は、保元の乱に敗れ讃岐国に流された崇徳上皇が詠んだ無常歌を絵画化したものと考えられる。
嘱累品では、表紙絵「磯辺・散る梅花」と見返絵「槇・磯辺・満ち潮・雲」を描いた。嘱累品見返絵のモティーフは、薬草喩品にいう「一味の雨」「三草二木」の喩え(衆生に素質、能力の差があっても、仏の教えを受ければ、悟りに入ることができる)を絵画化したものと考えられる。
この「三草二木」の例えをモティーフに、宗達は晩年に《槇檜図屏風》《耕作図屏風》を描いている。
化城喩品と嘱累品が補作されたのは、表紙に装飾料紙(雁皮紙)ではなく、おそらく紗や羅のような脆弱な薄絹が使われたために再使用できないほどに劣化したためと推察する。
俵屋宗達_槇檜図屏風
《槇檜図屏風》

新たに作られた願文の表紙「薄」には落日の薄の原が描かれ、見返絵「草を食む雌鹿」では鹿の半円の形によって山の端から昇る朝陽のイメージが重ねられている。この朝陽のモティーフは厳王品の料紙装飾「山の端の日輪」からヒントを得たのだろう。
俵屋宗達_平家納経願文見返絵
願文の表紙絵と見返絵は「死」と「生」を象徴的に表したもので、過去の講座で宗達画の特徴とした「無常観」を意味する。
このほか、薄の「秋」と厳島神社の「安芸」、「鹿原」・「麓原」と「六波羅」(清盛の邸宅があった場所)という同音異義の言葉による遊び心もうかがえる。
このころ無名であった宗達が描いたのは、安田靫彦のように絵画作品としてではなく、あくまでも平清盛と崇徳院を追善供養するためであった。
なお、願文に、表紙絵と見返絵のほかに新たに附装された「櫛筆文書」の櫛筆の解釈についてはさまざまな説があるが、清盛がかつて平家納経に用いた写経筆(鹿毛筆)を櫛のように並べて櫛に見立てて奉納した、奉納目録なのではないか。この文書を守る意味で附装することを考えたのが角倉素庵だと考える。

福島正則より平家納経の修復を任されたのは誰か。豊臣家とのつながりで医師吉田宗恂かまたはその甥の角倉素庵と推察される。素庵は吉田宗恂が開設した古活字版印刷工房の事業を任されており、嵯峨の印刷工房で本の装訂と補修を行ったことがあることが書状で確認されている。そうした証拠から、慶長7年の平家納経修復が、素庵監修のもとで嵯峨印刷工房の経師によって行われ、表紙絵・見返絵について旧知の絵師宗達に依頼したと推理しているわけである。


講演は例によって大幅に時間オーバーとなり、最後は駆け足でした。



2013.07.30 Tuesday

宗達を検証する(2)「宗舟・平次宛 角倉素庵書状」から見えてくる絵師宗達の実像

連続講座『宗達を検証する』
第二回「宗舟・平次宛 角倉素庵書状」から見えてくる絵師宗達の実像 ―宗達の居住地と社会的基盤について―
7月27日 於:Bunkamura B1特設会場

【「角倉素庵書状」にいう《六原の絵かき》とは、絵師宗達のことか?】
「藤本宗舟・角倉平次宛 角倉素庵書状」(個人蔵*1)にある〈六原の絵かき〉が絵師宗達であるかを検証するのが今回のテーマ。

大正2年(1913)の宗達記念展以降、作品以外に知られていない絵師宗達について関心が高まるなか、『美術研究』第111号(1941)で「妙持宛 千少庵書状」(大和文華館蔵)が紹介された。
文面には、西陣織元井関妙持と茶人千少庵を振舞に招いた人物が「俵屋宗達」とある。しかしこの俵屋宗達が絵師であることを示す文言はなく、本来であれば参考資料とすべきであるところを研究資料として使い、解説者が絵師宗達と即断してしまった。この書状の読み方から、絵師宗達について、上京あたりに住む「俵屋」という屋号をもつ裕福な上層町衆とのイメージが生まれ、定説となった(ちなみに、辻邦生『嵯峨野明月記』はこの説をもとに書かれている)。
「千少庵書状」にいう「俵屋宗達」については、井関妙持と関係の深い蓮池家(俵屋)に宗達という人物がいたと予想している。仮名草子『竹斎』では、扇を販売する「俵屋」は平安時代の五条大路(現在の松原通)にあることが示されている。
また、同様の誤解として、光悦会編『光悦』で本阿弥光悦と宗達が並んで紹介され、ここから宗達が光悦によって見出され世に出たという定説も生まれているが、これも証拠がない。

貿易商で能書家としても知られる角倉素庵は書籍蒐集家でもあった。「角倉素庵書状」は角倉素庵が入手した唐本二冊『長生詮』『無生訣』を見せてほしいという友人の能書家藤本宗舟に、<六原の絵かき>に貸しているので、次男平次に案内させる、という内容である。貸したのは粉本(模本)制作のためである。
仙人と祖師の図像が載っている明版『長生詮』『無生訣』(洪応明編著『仙仏奇踪)を絵手本として寛永期に作品制作を行ったのは俵屋宗達以外にないことから、この書状に登場する<六原の絵かき>は絵師宗達と考えられる(*2・*3)。
「六原」は鴨川の東、清水道に面した六波羅蜜寺の南地域で、京の葬地である鳥辺野の入口にあたり、生と死が身近な場所であった。清水坂は非人が住むところとして知られた。宗達画の主題となる無常観の背景にはこうした土地柄があるのではないか。

講座はこの後、六原を講師撮影の写真やGoogle Mapの地図と写真でたどった。現在、六原の名称が残っているのは、六原小学校とハッピー六原(スーパーマーケット)だけだそうだ。もしかすると、ハッピー六原のあたりに宗達は住んでいたのかもしれない。一度訪ねてみたいものです。


*1 「角倉素庵書状」は現在、講師の林進氏蔵。講座当日、実物を見せていただいた。茶色くて一見汚く見えるのは柿渋で、後年保存のために塗ったのではないかということだった。
*2   『仙仏奇踪』に収載された仙人図・祖師図を得て本として描いた宗達作品としては、『呂洞賓図扇面』などがある。米クリーブランド美術館蔵『鳥窠図』は宗達筆となっているが、講師は工房作と推定している。
*3  同じ頃『仙仏奇踪』を用いた絵師に狩野山雪がいたのだが、このことに講師は触れていない。 

講座の後、ナディッフモダンからみなとや 幽霊子育飴本舗の子育飴をおみやげにいただきました。純露を思い出しました。
子育飴


【講師による第一回講座のまとめ】
〔田家早春図の主題〕
醍醐寺本「田家早春図扇面」は、長閑な春の田舎の茅葺き家が描かれているが、左の土間のある一棟(産屋)、満開の桜、激しい川の流れを描くことで、無常観を表す。

【課題:醍醐寺蔵「舞楽図屏風」の主題は?】に対する解答
 醍醐寺本「舞楽図屏風」の右隻には、右に白装束に鳩杖を持つ採桑老、左に緑の裲襠を着けた二人舞の納曾利が描かれ、左隻にはm右に赤い裲襠を着けた羅陵王(下)と還城楽(上)、左に郡上の衣装を着けた崑崙八仙が描かれている。右隻右下に大太鼓、大鉦鼓、幄舎、左隻左上に満開の桜・老樹の松が対置して表され、、屋外の舞楽の場で有ることを示す。
 本図の主役は、死相を見せる怪奇な面を着けた採桑老であり、不老長寿の薬袋を得たが、死を免れない。一双の画面、左から右へ、崑崙八仙の少年期、還城楽と羅陵王の青年期、納曾利の壮年期、採桑老の老年期を、それぞれ舞人の身体の動きと衣装の色彩(群青、赤、緑、白)で示す。本図の主題は「老いの坂図」と同じで、いのちの儚さ、無常観を表す。


2013.06.26 Wednesday

宗達を検証する(1)宗達画の『かたち』と『こころ』

Bunkamura ブックショップ ナディッフモダン主催
連続講座『宗達を検証する―友人角倉素庵の視点から絵師宗達の真実に迫る―』
6月22日 於:Bunkamura B1特設会場

宗達を検証する

琳派の作品群はもともととても気に入っているし、それらをみるとき、この国に生まれ育った自分の血のなかに潜んでいる何かが反応する、なんて言うと大袈裟だけれども、いつもなんかそんなような気がする。尾形光琳も酒井抱一もすばらしいが、そういう反応の仕方で言えば、個人的には俵屋宗達が一番なのだ。その理由は単なる好みということで説明できると思うが、それと同時に、宗達という人物のことがまだよくわかっていない(生没年も不詳)という、ミステリアスな部分にも興味が惹かれるからだろう。
美術は好きだけども、この頃は関心がなにげに薄くなって、ただ絵を眺めて楽しむ、という見方になっていた。せっかくだからこの機会に、いちどリセットして、美術への向き合い方をあらためて考えてみてもいいかもしれない、そんな気分もちょっとあったりして、参加することにした。

講師は林進氏。大和文華館学芸員を務めていたこともある美術史専攻の先生。話は脱線気味になって、多少とっちらかったりもするが、語り口は楽しい(初回ということもあって、予定時間を30分以上オーバーした)。

まずはじめに、講義を聴いた、ただの宗達好きが自分勝手な解釈でまとめた記事であることをお断りしておく。

第一回 序章 宗達画の《かたち》と《こころ》―重要文化財「田家早春図扇面」を読み解く―

講座を始める前にまず、講師の出身地、直島についての話(静かでいいところなんだけど、最近は観光客やら外国人がたくさん来て、なんか違う)があって、そのなかで、石井和紘設計の直島町役場に触れる。西本願寺飛雲閣などから《借用》した町役場だが、ただ外観を引用しただけでなく、開放感あふれる空間を同様に引用したことに注目−−というところから講義は始まる。

ということで、まず配付されたテキストから〔宗達画の特徴〕についてまるまる引用してみる。
  宗達は、絵画制作に際して、しばしば先行作品から図様の《借用》(引用、剽窃)を行った。色紙形、短冊形、扇面形の小画面に、モティーフを大胆に構図し、色彩の効果的な配置も絶妙である。宗達は、モティーフの動植物の《かたち》を単純化し、典型化した。対象を描く宗達の視点は自在であり、構図は斬新である。
  宗達画の主題は、「死と再生の輪廻」、すなわち神道でいう「死生観」、仏教でいう「無常観」を表した作品が多い。宗達は、この宗教的テーマを、日常、身辺で眼にする親しい《景物》でもって表した。宗達画を享受する当時の人々は、その意味をよく理解していた。

第一回講座は、「絵師宗達は、先行する古い絵巻(の模本)から、図様の《かたち》と《こころ=意味内容》を借用して、新たな独自の絵画世界を創造した。」として、醍醐寺《扇面貼交屏風》(扇面散貼付屏風)のうち「田家早春図扇面」を取り上げた。

山根有三らは、扇面のゆったりした特殊性を活かした構図のおもしろさや技法的な理由からこれを扇面の最高傑作と評価したが、描いた宗達同様、当時の人々がこの扇面を理解したはずの意味内容が考慮されていないのは疑問だ。日本美術評論が、造形やら目に見えるものだけで判断しようとしがちだ。

田家早春図扇面
この扇面は、茅葺屋根の田舎家、裏山の土坡など、先行作品の図様を借用して構成されている。
先行する作品で描かれているのは、生と死、死と再生、人の一生などだ。例えば梅は誕生、水は人生を表している。
執金剛縁起絵巻_上巻第二段絵
東大寺《執金剛縁起絵巻》上巻第二段絵「嬰児の良弁が金鷲にさらわれる場面」では、鷲を追う母親が描かれている。この母親はどこから出てきたというと、出産姿をしていることから、母屋からではなく産屋とした納屋から出てきたわけである。当時、出産は忌みであり、納屋、厩や牛小屋、あるいは母屋の一部に場所をこしらえたり、住民共同の産屋を使ったりして日常から隔離していた。
その他、さまざまな先行作品で出産と墓場、人生の坂道=人生の階段(六道珍皇寺《熊野観心十界図》など)が描かれ、人生の無常を表した。
《田家早春図扇面》には茅葺屋根の田舎家が右に二棟あるが、そのひとつは産屋と考えられる。そして、絵巻の紅梅は扇面では山桜となって同じ形に描かれることで、これも〈誕生のモティーフ〉となっている。そして東大寺本絵巻にある水は扇面で川の激しい流れとなり、水の流れ、つまり〈人生のモティーフ〉となっている。
こうしたものが表すモティーフを当時の人々は共有していたと想定され、すなわち《田家早春図扇面》で示されたものは、世に永遠のものなし、形あるものは必ず滅する、人は生まれてやがて死ぬ、という「無常」であり、生きている間は一生懸命に生きる、ということだ。
《田家早春図扇面》で宗達は先行する絵を借りてきて、対象や構図という「かたち」の表現だけでなく、「こころ」を別の形で表現したのである。

醍醐寺本《扇面貼交屏風》では死と再生、六道輪廻の意味を込めた構成がなされている。
六道輪廻で言えば、聖衆来迎寺本《六道絵》のうち「人道無常相」では数々の〈無常のモティーフ〉が、「山に入る太陽」「満月」「散り行く紅葉」「谷川の水の流れ」「海の満ち潮(引き潮)」の形をとって描かれている。
醍醐寺本《扇面貼交屏風》では、《六道絵》の「人道不浄相」のモティーフが「犬図扇面」に、「畜生道」のモティーフが「鵜飼図扇面」「重い柴を運ぶ牛図扇面」「荷車を索き、川を渡る牛扇面図」などに活かされている。

――と、最後は駆け足で終了。

講義の内容は、誰かがブログあたりでしっかりまとめてくれると信じていたので、他人任せに呑気に聴いていて、メモもあまり取らなかった。ところがネットをふらついてもこの講座について触れているものがほとんどないようなので、一応まとめてみることにしたが、そんなわけでかなりうろ覚えである。講義の大まかなところは以上のようなものだったと思うが、流れをうまく掴めていないので話が前後したり、微妙なところをこじつけたりしている気もする。
このまとめ自体がとっちらかって怪しくなっているので、そんなんじゃなかったよ、などとご指摘いただければ幸いです(一度まとめてしまうと、次もやるんでしょ、となるのがこわい)。

そして講師からの宿題。《舞楽図屏風》の主題は何か? 次回までにちょっと勉強してみます。

 


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